AIが人間の表現を脅かす時代、だからこそAIから新たな表現の可能性を探る その実験場としての「デヴィエーション・ゲーム展 ver 1.0」レポート

高性能なAIが出た今は、逆に言えば“逸脱”のチャンスでもある

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Twitterを開けば、また誰かがAIの画像生成ソフトを使った絵をアップしている。また誰かがChatGPTに大喜利を仕掛けている。ビデオゲームのカンファレンスを見れば、AIが現代のゲーム開発で必須だとわかるし、メタAIを巡って開発者とゲーム研究者が議論していたりする。

いまやあらゆる分野で急速に絡んでゆくAI。昔からさまざまな開発などに関わってきたが、近年この技術がこれほど注目されるのは、ついにクリエイティブの分野にまで進出してきたことが大きいだろう。

描かれた「都市」の絵をAIが人間より先にあて、人間側が負ける。 - Photo: Tada(YUKAI)

AIは高密度の深層学習とそれを基にした処理能力を持つ。しかし、出力する動機として人間の持つ意思や裁量が現在のところ存在しない。それゆえ絵を描いたりテキストを綴ったりするクリエイティブな行為は人間の意思に由来するものだと思われてきた。

ところが近年では絵のようなクリエイティブの分野にもAIが絡むようになってきているのである。ある人は言う。「AIがここまで作れるのなら、もしかして人の手のクリエイティブがいらなくなる時が来るのか?」

だったら本当にそうなのか、クリエイティブの極北である美術の側から検証してやろうじゃないか。AIはテクノロジー面や産業面など数多くの分野で取り沙汰されてきた。弊誌でも研究者サイドである��宅陽一郎氏のインタビューを掲載した。だが美術の観点ならどうだ? 「デヴィエーション・ゲーム展 ver 1.0」とはそうした時代を反映した、AI時代のメディアアートとビデオゲームに着目した展示である。

AIがクリエイティブに対してどんな影響があるのか……。難しい展示のように思われるかもしれない。が、実際にはわりと笑えて、かつ考えさせられる企画だった。

AIには分からないが人間には理解できる絵を描くゲーム

ここは渋谷シビック・クリエイティブ・ベース東京[CCBT]。「デヴィエーション・ゲーム展 ver 1.0」の会場である。この場所はテクノロジーの活用を通じて人々の創造性を社会に発揮するための活動拠点だ。今回のAIをゲーム、美術に絡めるという野心的なプロジェクトはこの拠点で作られた。

渋谷のシビック・クリエイティブ・ベース東京にて、3月26日まで開催された。 - Photo: Tada(YUKAI)

展示会場では、2人から5人で協力してAIを出し抜く一風変わったゲームを楽しむことができた。このゲームは、とあるお題の絵を人間には当てられるがAIには理解されないように描く遊びだ。描く側は「冬」といったお題をAIにバレないように抽象的に描き、予想する側は線だけから描き手の意図を汲み取らなければいけない。

この絵が「冬」であるとAIが人間より先に当て、人間側が敗北した。

このプロジェクトでは、展示で遊べるゲームの他に誰もが参加できる全6回のワークショップも実施。ワークショップでは展示では遊べない実験的なルールのテストプレイも行われる。実際に筆者も第2回のワークショップに参加することができた。

AIにとっての「愛」を描くワークショップ

「さあ、みんなが思う“愛”を表現した絵を書いてみてください!」木原共氏はそう案内し、会場の子供たちは、タブレットへ思いつくとおりの絵を描きはじめた。

眼鏡の司会こそ、今回の展示を企画したメディアアーティスト・木原共氏である。木原氏はPlayfool(Saki CoppenとDan Coppenによる実験的ユニット)とともに本展示を作り上げている。

彼らは本展示のコンセプトとして、数学者や計算機科学者であるアラン・チューリングが提示したイミテーション・ゲームをモデルに挙げている。

映画にもなったこの理論はこういうものだ。コンピューターと人間に同じ質問をし、どちらの回答であるかを隠し、第三者に見せ「どちらがコンピューターの回答か?」を判定させる。どちらか区別が付かないほど、そのコンピューターは優秀であるとされる。つまり、AIが人間に近いものであればあるほど良かった。

そこで、彼らは現在のGPT-4などの技術の進歩を見て、「AIが人間の模倣を目指す段階は終わり、むしろ出力が人間と見分けがつかないがゆえに発生しはじめている問題」について言及している。

たとえば画像生成AIであるMidjourneyで作られた絵がアー��コンテストで1位を取ってしまう事例や、言語生成AIであるChatGPTを利用して大学のレポートを提出する学生の問題がある。

しかし、歴史を少し振り返っても似たようなことは過去にも起きていたと彼らは語る。かつて写真技術の到来が、従来の職人的な写実画家の仕事を奪うとされていた。だが木原氏は、むしろ絵画は写実的な描き方から解き放たれ、写真では不可能なモネやセザンヌといった印象派の表現が生まれた歴史を挙げる。

人間の表現を代替する新技術が登場したとしても、クリエイターは簡単に模倣できない逸脱した表現を作り出してきた。高性能な画像生成AIが出た今は、逆に言えばまさに新しい表現が登場する契機でもあるのだ。

今回の展示は「ある表現が過去に存在したかどうかをAIに識別させることで、過去から逸脱した表現の可能性を探る」ことを目的としたゲームをしている。彼らはその展示をチューリングのイミテーション・ゲームを拡張する形で「デヴィエーション(逸脱)・ゲーム」と名付けた。AIが見たことのない絵を描かせる行為で、いわば人為的に次の印象派のような表現の誕生を見出すのである。

会場の子供たちはこのようなコンセプトを露知らず、 「愛」をテーマとした絵を描いている。これは作家たちの開発したゲームのワークショップであり、実際に参加者がAIによる絵の評価がどういうものかを体験することを目的にしている。

ちなみになぜか筆者も「愛」をテーマにした絵を描くことに。絵の内容は「サウナで休憩用のイスに掛け湯をかけるぶた」。サウナと水風呂で整い、椅子で休む人へ配慮した無償の愛の表現である。AIによる「愛」の判定は77%。

というわけで「デヴィエーション・ゲーム」のワークショップはというとこんな形だ。まず司会の指示でAIにとって「愛」だと認識される絵を、参加者に思いつくままに描いてもらう。

AIはそれぞれの絵を「愛」のパーセンテージがどれくらいか判定すると同時に、学習結果として蓄積してゆく。ひととおり参加者の絵を判定すると、次に司会は「人間以外を描くように」とか「物だけで表現するように」と条件を追加し、参加者からいろんな表現を引き出そうとする。

一連のプロセスを3回ほど重ねると、最終的に参加者の描いた絵が一斉に集まったグラフィックを表示。そこではAIの判定により、形の似た絵同士が密集している。

AIにとって「愛」であるほどより色が濃く表示される。孤独に表示されている絵ほど過去の参加者の絵から逸脱したものとなる。

大事なのはここからで、曼荼羅のように集まったグラフィックのなかで、どの絵とも密集していない絵を探していく。宇宙空間の中で誰とも寄り添わずにぽつんと存在する位置にある絵こそ、参加者やAIの想定する「愛」のイメージから逸脱した絵というわけである。

この模様のような絵は第6回のワークショップまで孤立しており「逸脱」した絵となった。 - Photo: Tada(YUKAI)

生物も禁止、結婚式関連のシンボルも禁止となった中、参加者が生み出した模様が最もAIにとって「愛」と認識される結果になった。 - Photo: Tada(YUKAI)

このワークショップを会期中に行った中、「AIにもっとも高く『愛』と判定されながら、同時に逸脱した絵」も登場した。それが上の写真で描かれたものだ。ほとんど抽象的な模様にしか見えず、人間にはまったく愛とは思えないのだが、このゲームにおけるAIには愛だと見える絵なのだという。 

メディアアーティストたちはAIをどう観ていたのか

そんな“AIの想定からの逸脱”を模索する展示では、ワークショップの他にも気鋭のメディアアーティストたちが揃い、トークセッションも行われた。木原氏とPlayfoolに加え、アーティストの久納鏡子氏、そして弊誌でもインタビューした谷口暁彦氏らがAI時代の表現について語り合った。

まず今回の展示について、谷口氏は「こうしたAIを扱ったゲームによって、新しい愛の概念も生まれるのではないか」と評価していた。久納氏も「新しい愛の形が生まれたらどうしよう」なんて語っている。確かに先のワークショップで観られた抽象的な絵を「愛」と判定したAIの事例を見るとわからなくもない。

左から、久納氏、谷口氏。ちなみにこのセッション内で、4年前のインタビューの時に語っていたアーティストの業界影響力をスピードで決めるレースゲーム『Art Speed』は作り続けていた話も出ていた。デュシャンの『泉』の便器が高速で走るデモも公開。

トークセッションではAIがこうしたクリエイティブ行為に関わることについて、「中国語の部屋」という思考実験について言及する場面もあった。

これは中国語がわからない人を小部屋に入れ、外部からの中国語の手紙に対しマニュアルに沿って同じ言語で返信させるものだ。すると外部の人は意思疎通ができたと思うだろうが、小部屋の人は自分が何をしているのかまったく理解していない。本当にコミュニケーションができていると言えるのかを問うたものだ。

今となっては「水曜日のダウンタウン」におけるクロちゃんの企画を思わせる思考実験でもあるが、ともかく人とAIのやり取りでAI側の意思があるかないかが争点になるわけである。

セッションでは中国語の部屋の反論として、戸田山和久氏の『哲学入門』にて挙げられた“中国語の部屋搭載ロボ”(なんだかコントみたいである)の例を挙げ、「言語のやりとりではなくレスポンスが行動で返ってくるものがあればまた違うのではないか。外部からの手紙で美味しい食堂あるみたいな情報を聞いて、ロボが実際に食べに行くなら話が変わってくる」と語る一幕もあった。これもAIに対してなんらかの出力に対する意思や裁量の問題を考えるポイントとなっていた。

話題はその他に「メディアアーティストはどうやって生きていくのか」といった問題も。木原氏は「ほかのコンテンポラリーアートのようにマーケットがない。どうやって作品を売って生きていくんだろうか」ともこぼしていた。

「作品と商品の間をどう飛び越えていくか」が、木原氏とPlayfoolにとってビジネスとしても作品作りを行っていく悩みだという。今回の展示もビデオゲーム領域にも足を踏み入れているということで、将来的にはSwitchなどで商品化できないかとも模索していた。

そこで谷口氏はあのTale of Talesのキャリアを例に挙げていた。老婆が墓地まで歩く『The Graveyard』などを開発したチームだ。彼らはもともとメディアアーティストとして、助成金を得てビデオゲームにて実験的なプロジェクトを行ってきたのだが、大金持ちの家政婦となるADV『Sunset』で初めてビジネスとしてのプロジェクトに着手。しかし失敗してしまい、商業ビデオゲームから撤退した苦いキャリアがある。

だが谷口氏は「それでもTale of Talesは今デジタル彫刻をNFTでバンバン売って作家活動を続けているし、悲観しなくてもいいのでは」と指摘する。僕もTale of Talesの『Sunset』以降はあまり把握していなかったがそんなことをやっていたとは……と思わぬところで知る形となった。久納氏も「いろんなドメインを渡り歩いてる人が多い。ゲームで売れなくても違う広がりができればいいのでは」と続けていた。

また余談ながら、谷口氏はメディアアートの作品としての永続性についても軽く言及していた。僕も最近似たようなことを考えたテキストを書いたのもあり、現役のアーティストである谷口氏がどのように考えているか気になっていた。

そこで谷口氏の結論は「他のアーティストはランドアート(※自然物を使い、砂漠や平原などに作品を構築する美術のジャンル)は消えていくものなんだ……と語っていたことにのっとって、メディアアートも儚く消えていくものとして捉えています」とのこと。もしかしたらそのくらいの考えのほうが潔いのだろうか。

ともあれ、「デヴィエーション・ゲーム展」は現在のAI技術に対してビデオゲームやメディアアートの領域を踏み越えたシリアスなテーマを持ちつつ、わりと気軽に触れられる展示でもあった。画像生成AIが回収しきれない“逸脱”とは何かを考えるよい機会となったことだろう。

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