BitSummit 2018でIGN JAPAN賞を勝ち取った『Dome-King Cabbage』――テキスト、グラフィック、演出、そして音楽が調和した奇妙なノベルゲーム

ワンマンだからこその不思議な統一感

BitSummit 2018でIGN JAPAN賞を勝ち取った『Dome-King Cabbage』――テキスト、グラフィック、演出、そして音楽が調和した奇妙なノベルゲーム
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※本稿の引用文には一部、執筆者による英文テキストの翻訳が含まれており、デモ/最終バージョンとは異同する。


ビジュアルノベルを構成する基本的な要素は四つ。テキスト、グラフィック、演出、そして音楽だ。『Dome-King Cabbage』は――十分程度のデモ版に限った評価ではあるが――これらの要素と、その組み合わせの技法において、マスターピースである。

そもそもの話、100本近くのゲームがたったの二日間だけ展示されるBitSummitのようなイベントで、ひとりの人間がすべてのゲームをプレイすることはできない。だから筆者は事前の準備として、出展リストに掲載されている作品の動画群をひととおり見た。もちろんトレイラーとゲームは別物だから、それだけで優れた作品だと判断できるわけではないが、目安にはなる。

この時点で『Dome-King Cabbage』は、ずば抜けていた。トレイラーが始まり、最初の音符が鳴ったとたん、完全にぶっ飛ばされた。これは思いつきや試みで作られた音色ではない。いろいろ言いたいことはあるが、ひとつだけ。ベースレスなのだ。そして立て続けにあらわれる手描きのグラフィックのふわふわとしたタッチと、パステルカラー、流れゆく雲海のなかでこちらを見ている頭部が雲の三つ目の人。彼がぱちぱちと三度瞬きをするタイミングは、チルアウトな楽曲のなかでいちばん音の先端が尖ったエレクトーンが鳴る瞬間と、まったく一致している。

ただ、もちろん本作に使用されている音楽とグラフィックは、それぞれを個別に見れば――すばらしい品質であるとはいえ――「あり得る」ものだ。本作の卓抜した美点は、ふたつの要素の完全な調和である。ここまでのレベルで楽曲の音色とグラフィックの色彩が結びついている作品は、Toby Foxの『Undertale』くらいしか思いつかない。原理的に、ひとりの人間が作っているのでなければ不可能な調和なのだ。いや。しかし、音楽と絵画というまったくべつの種類の技芸をふたつ、ここまで洗練させられるひとりの作家など、はたして存在しうるのだろうか?

どうやら、存在し得たらしい。それも、ふたつどころではなく。BitSummitに展示されていたデモ版のクレジットには、UIデザイン、日本語訳、ピクセルアート、クレジットの楽曲をのぞく「そのほかすべてのもの」は、「Joe Buchholzの手による」と記されていた。

 
©’95. 96. ’98 COBYSOFT CO.とある。つまりポケモン、それも「ピカチュウ」バージョンへのリファレンスだ。「緑」や「赤」や「青」などのバージョンでは、1995とあったり、1996と併記されていたりする。

ゲームは、『MOTHER 2』の戦闘画面ふうのサイケデリックな背景に浮かび上がる開発チーム名「Cobysoft」のロゴ、「ドウェインボーイ・カラー」たる架空の携帯ゲーム機の起動時のロゴ画面、つづいて明らかに『ポケットモンスター ピカチュウ』を模している作中作「Dome-King Cabbage」のタイトル画面からはじまる。「ニューゲーム」を選択すると作中作がふつうに始まり、「オプション」を選ぶと画面がバグる。

 

作中作は「ポケットモンスター」シリーズを彷彿とさせる見下ろし型のドット絵の画面で、下部に表示されているテキストボックスに文字が表示される。三人称のテキストは、クレムというモンスターの心理を語るものだ。どうやらこのモンスターはどこかから、カラフルタウンという町に引っ越してきたばかりらしい。彼女は新居のなかにいるのだが、なかなか荷物を解く気になれない。思い出したくない過去が蘇ってくるし、そもそも彼女は泥なので、べたべたしていて、またそこらじゅうを汚してしまうにちがいないのだ。ああ、こんなことで、ブリーダーのために戦うという夢を叶えることなど、できるのだろうか?

翻訳の品質も最高だ。おなじトーンを保ちながら、「Hue Village」という地名などは「カラフルビレッジ」とうまく訳されている。

ここでとつぜん、画面がグレイ・アウトする。携帯ゲーム機を握っている手のアップ、それから驚いた顔をしている青年の目元のアップ。「ドウェインボーイの電池が切れちゃった」。彼は、ゲーム機をひっくり返して、電池を入れるところのカバーを外す。ふたつの電池が疲れ果てて気絶している。三人称の語りが言及する。「ドウェインボーイの電池は、働かせすぎると疲れはてて、真夜中に持ち主のもとから逃げ出してしまうことで知られている」。

マゼンタ色の雲が下げられた車窓のむこうを流れていく。マッシュという名前の青年は中指と人差し指を動かし、その雲のそばを歩き抜ける想像をする。そして、「クズアイランド」で自分を待っている就職面接のことを考えないようにする。カメラが引いていき、フォルクスワーゲン・ビートルっぽい車の後部座席に乗っているマッシュと、車を運転している影、タイトルロゴがあらわれ、音楽にパーカッションが加えられる。

マッシュを乗せて面接会場へと向かっているのは、頭部が雲、身体がスケルトンのドライバーである。彼はマッシュがゲームをやめたと見ると、話をはじめる。「あんた、ドウェインボーイにまつわる都市伝説を知ってるかい」。彼が語るところによれば、「もはやCobysoftはドウェインボーイを製造していない」。なぜなら、「ドウェインボーイのプレイヤーに奇妙な症状があらわれはじめているから」だ――プレイし続けていると、HPバーやステータスなどのユーザーインターフェイスが、現実世界に見えはじめるのだという。理由はわからない、筐体から出ている悪い電波がそうさせるのだと言う者もいるし、「Dome-King Cabbage」のトレーディングカードを売るためのステマだと言う者もいる。ふたりはしばらくのあいだ会話をする。

話の途中、とつぜん車が停まる。「ここからは一人で行ってもらわなきゃならない」と運転手は言う。「あれ、面接会場に直接つけてくれると思っていたんですけれど」とマッシュは言う。運転手はスマホの画面に表示された、Goober(Uberのもじり)の運転手用GPSマップを見せてくれる。クズアイランドに繋がる唯一の橋だ。交通はまったくないのに、橋の島側の終点で事故が多発しているらしい。

「あんたがこの車に乗ってきたときから、わかってたよ。あんたは自分のすばらしい才能を抑えつけたままそこそこいい仕事に就くだろうが、そいつはひどい嘘つきの所行だぜ。あんたがさっき、窓の外を見ているとき――ビジョンが見えていたんだろう?」
「はい」とマッシュは答える。「ごめん……なさい」
「いやいや! 謝らなくていい。なんにも恥ずかしがることなんかない。あんたはいい子だよ。ただ、悪いが、ここからは歩いて行ってもらわなきゃならない」
「いまの音はなんだろう? 呻り声みたいな」
「気のせいだろう、おれには聞こえなかった」
「ああ、見てください、びっくりマークつきの箱が見える!」
「なんてこった、あんた、UIが見え始めてるのか?」
「ああ、あの呻り声はなんだ?」
「いま起きるべきではないことが起きているみたいだな。ランダム・エンカウントだ」

クズアイランドにつづく橋の終点が、巨大な筒のようなものに塞がれているのを、マッシュは見る。道幅いっぱいのサイズの缶コーヒーの缶である(よく見ると、日本語で��スチール」と書いてある)。缶の上部にHPバーが表示される。逃げることはできない。逃げるためには、相手よりも強くなければならないからだ。そしてマッシュの視界が明滅しはじめる。ここでデモ版が終わる。

ビジュアルノベルのストーリーテリングは、単純なテキストのみでは成立しない。テキスト自体が独立して洗練されていることは好ましいが、それ以上に私たちがよろこぶのは、音楽、グラフィック、そして演出が、テキストと結びついているときだ。そうしてはじめて、ビジュアルノベルという形式になる。ある作品が語られるにあたって、どのような音楽が鳴っているのか。どんな色彩とタッチで、グラフィックが描かれているか。どれくらいの長さで場面が転換し、その転換の手法はどんなものか。ビジュアルノベルにおいては、テキスト――あるいは、もっと言えば、ストーリーさえもが、技法のひとつにすぎない。語られるものを、作者と鑑賞者にとって美的に好ましい手段で語るための技法にすぎない。

小説家が判型やフォントを選択することはほとんどないが、ビジュアルノベルの作者は、しばしば意図的にフォントを選択、あるいは作成する。なぜならビジュアルノベルの作者は、一見すると外面的にみえるフォーマット自体を疑い、語るべきものをよりよく語るための形式を模索するところから、創作をはじめるからだ。それは目が眩むような自由であるが、同時により多くの才気を要求する形式でもある。

だから、もちろん、作業は多岐にわたる。その多さはしばしば、ひとりの人間の手に余るものだ。簡単に言おう。ビジュアルノベルの作者は、絵を描き、音楽を作り、小説を書き、そしてそれらすべてを隙のないかたちで結びつける自由を持つ。いままで存在したビジュアルノベルが、複数名の専門家たちの協業によって制作されてきたのは、そんな自由をひとりきりで楽しむことができるほどに充実した作家が存在しなかったからだ。それがあたりまえだったからだ。そんなに複数の才能をひとりの人間が持つことなど、ありていに言って、ありえない話なのだ。

しかし若き気鋭Joe Buchholzは、ほんとうに信じられないことだが、画家、作曲家、小説家、演出家の才能を、舌を巻くような高いレベルで持ち合わせており、また彼自身が心から楽しみながら研鑽してきた。BitSummitの会場で、彼は私に告げた――「ぼくはずっといろいろな分野の創作をやってきた。ずっと昔から密かな楽しみとして、絵を描いたり、お話を書いたりしてきたんだ。音楽は、やりはじめて六年になる。だから、ぼくがやれるすべてのことをひとつの作品にとじこめるのに、ゲームという形式は最適なものだったんだ」

『Dome-King Cabbage』のデモ版にあらわれている驚くべき統一性、一貫性に理由を求めるならば、ほんらい複数の人間でなければ創造できないはずだったビジュアルノベルのほぼ全要素を、たったひとりきりで充実しているから、という説明になるだろう。四つの要素が完全に調和しているのだ。だからこそ作品の全体から、なまの人間の声、ひとりの人間の力強い語りの声が聞こえてくる。ひとつの魂の歌声が聞こえてくる。その意味で本作は、約束された名作であると同時に、多彩な才能をもつ個人作家がその力を十全に発揮し、のびのびと創作できる、ゲームという新しい芸術の幕開けをあらためて告げる作品となるだろう。

おめでとう、Joe!

ちなみに、同作はBitSummit出展作品から選ばれた「IGN Japan賞」を受賞した。筆者は選考に加わらなかったが、あとから報せを聞いて驚いた。どうやら、弊誌の編集部員たちの目に曇りはないようだ! 本作のリリース目標は年内、現実的には2019年になるとのこと。私自身、はやく出来上がったものをプレイしたくてたまらない。みんな、彼に声援を!

※デモ版はこちらからダウンロードできます。

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